国のこわれ方 ~一つのケース・スタディとしての9世紀~
―Future Impact Forumより―
								
			国家とは何か? それはいつ、なぜ、どのようにこわれるのか?「国のこわれ方」とは、自らの正当性を語れなくなる瞬間に始まるのではないか。今回のFuture Impact Forumは、政治思想史を専門とする片山杜秀先生がさまざまな時代を縦横無尽に行き交いながら紡ぐ、国家の正当性とその語りを巡る壮大な思索トリップ。9世紀の日本を起点に織りなす、「国のこわれ方」の原形を示す壮大なケース・スタディにお連れいたします。
目次
映画『陸軍』に見る近代国家の公私のねじれ
	「国のこわれ方」という題でお話しします。実は、以前『国の死に方』(2012年、新潮社)という本を書いたことがあり、今日はそれも少し意識しています。近代・現代のケースをいくつか出して「こうして国は崩壊していきますよ」と語る手もあります。むしろそちらの方が私の仕事には近いのですが、あえて専門外の領域「9世紀の日本」を取り上げたいと思います。9世紀を起点に、ほかの時代にも視点を移しながら、何らかの発展性が示せればと考えております。少々、変わった切り口になります。
	まず、9世紀、特に後半です。ほんの数十年に多くの重大な出来事が重なり、日本の「国のかたち」が大きく変わった。そう見ることができるのではないか。西洋史には「17世紀ヨーロッパの危機」がありますが、私は「9世紀日本の危機」と呼びたくなります。
	導入に木下惠介監督の映画『陸軍』(1944年)を置きます。この作品は国策的な戦意高揚映画のはずが、戦意を高揚させない場面を木下監督が撮ってしまった、と語り継がれています。内閣情報局の推薦、陸軍報道部の協力つきで公開されたはずなのに、いざ見ると、最後に出征する息子を田中絹代演じる母が行進列へ駆け寄り抱きつくわけです。行進は粛々とおこなわれ、群衆は日の丸を振りながら壮行する。家族は分をわきまえなければならない。その儀礼が、親子の情愛で一瞬にして破られる。軍隊は「公(こう)」に身を捧げ、家族の関係は一度切れるはずなのに、「私」が乱入して儀礼を踏み破る。『陸軍』は一度公開されましたが、すぐ打ち切りになり、戦後まで見られなくなりました。
	この『陸軍』は、火野葦平の同名小説が原作です。北九州・小倉の商家を舞台に、日清・日露・日中・太平洋戦争の時代を、代々の家族史に織り込む。ホームドラマが日本陸軍史になっていくような構成です。冒頭は、長州の奇兵隊が小倉に攻め寄せる場面。奇兵隊は士農工商を超えて兵を集め、訓練し、集団行動のできる「近代的な軍隊」でした。吉田松陰の軍事思想に始まり、大村益次郎・山縣有朋へとつながって、日本の近代陸軍の原形をつくる。その基本史観が映画の土台にあります。
	そして、小倉藩士が商家に『大日本史』(1906年)全巻を託す。「時代は変わった。私は殿様に尽くして戦死するだろう。だが、これからの時代を生き残る人間は、これを読み、新しい時代に備えてくれ」と。この『大日本史』全巻をその店に預けて、その後行方知れずになって、恐らく戦死したであろう小倉藩の侍のエピソードから、この映画は始まるわけです。
徳川光圀の執念『大日本史』編さんに貫いた「筋」
	さて、その『大日本史』とは何か。「六国史※1」の続きの正史を書きたいという志を抱いた徳川光圀が、江戸前期からこの編さんを藩の仕事としました。しかし、幕末になってもできず、明治に入ってもできず、曲折を経て明治中期にようやく完成と見なされる。この『大日本史』というのは、天皇を中心に日本の国柄が維持されていて、日本という国の正統性は、神武天皇から始まる天皇で一貫しているということが示されています。
	光圀は、なぜ天皇中心の歴史を編もうとしたのか。背景には水戸徳川家の特異な立場があります。御三家といいながら、尾張・紀伊に比べて一段低い。参勤交代は免除、といえば聞こえはよいのですが、実際は一年中江戸詰め。登城はするが、老中や奉行のように政治の実務は担わない。交際費は増える、江戸屋敷の維持費はかさむ。それなのに石高は低く抑えられ、実質石高は額面よりさらに低い。しかも、茨城県の南部は水がたくさんあってお米が取れるのですが、水戸徳川家の領地というのは、茨城県の中部から北部になっていて、基本的には痩せた土地なのです。江戸屋敷は常時フル稼働、国元の統治にも人手が要る。つまり、猛烈にお金がかかるのに、入る方は少ないわけです。水戸は慢性的に貧乏でした。城が焼けても、門や天守を建て直さず放置、そんな話も残っています。なぜ、うちの藩だけこんな不遇に遭わなきゃならないのだ。筋が通ってないじゃないかと光圀は思うわけです。
	光圀には、もう一つ個人的な動機もありました。兄を差し置いて当主を継いだ負い目です。父・頼房の認知の経緯から、兄より先に公認され、そのまま家督を継いでしまった。儒教的常識からすれば筋が通らない。だからこそ、次代で自分の子を兄の養子に、兄の子を自分の養子にと取り替え、長子相続の「かたち」を整える。筋が通っていないことへの恐れが、彼の根っこに強くあったのです。
- 
			※1『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』からなる六つの国史のこと
 
水戸学と尊皇思想の拡張「理念が現実をこわす」
	水戸は、なぜ将軍家に尽くさねばならないのか。身内だからでは筋が通りません。祖先が一緒というだけでは100年も200年も忠節を尽くす道理は出てくるまい。そこで、こう考えます。徳川将軍家は合戦で勝って権力を握った政権です。力の産物である以上、より強い力が現れれば滅びます。そんな「いつかは倒れるかもしれない家」のために、なぜ水戸徳川家が命まで懸けねばならないのか。そこで、天皇です。日本で大義名分が一貫して通って、歴史的に不動の存在と見なせるのは、天皇だけといえる。征夷大将軍の位も、本来は天皇から授かる。だから、水戸が将軍家を助ける理由は“身内だから”ではなく、“天皇から政治を委託されている将軍を助ける”という筋に置き換えられると。天皇が存続する限り、その補佐もまた正当である。このロジックで、水戸の苦役を「天皇への忠誠」としてすり替えていくわけです。そうすると苦労に堪える正当性のレベルが上がった気がする。それが水戸藩の学問※2となりました。
	ここで強調したいのは、天皇の正統性は観念論ではないという点です。ずっと続いて滅びていないという神話的・歴史的事実に裏づけられている。故に史料を集め、事実を積み上げ、国の歴史を編むことで正統性を示すしかない。これが『大日本史』に着地します。水戸が本当に支えたいのは天皇であり、将軍家を助けるのは方便。だから、代々の天皇を軸に叙述するような構成になるのです。
	しかし、水戸の悲劇が始まります。光圀は「必ず完成せよ」と遺言し、藩は貧しい財政を押して学者を雇い、江戸と水戸に編さん所を構えます。金は出るが、成果はすぐには出ない。内部には当然、反発が生まれます。「学者が偉そうに」「観念のために藩を潰すのか」と。積年の不満は幕末に噴き出し、天狗党の乱をはじめ内紛は苛烈を極め、まともな人材が次々と失われていく。さらに悲劇的なのは、尊皇の志を頼みに京へ走った天狗党が、よりによって水戸出身の徳川慶喜によって厳罰に処されることです。孝明天皇は過激な尊皇派を、自分を危険に陥れるものとして恐れていた。慶喜はこれを粛清して、むしろ天皇の信任を確かなものにする。皮肉というより、冷徹な現実政治の帰結でした。
	と、後の水戸藩の運命を考えれば光圀の仕掛けた罠はあまりに痛烈すぎたのですが、とにかく光圀の筋書きに戻りましょう。『大日本史』を単なる藩の業績ではなく、「六国史」に連なる国家の正史として朝廷に認めさせたい。正統性は思想ではなく記録に宿る。水戸が見いだした筋は、「天皇という連続性に自らを接続することで、『家』を超えた『公』に仕える」という転位でした。そして、その正当化を神学的な体系づくりではなく歴史編さんでおこなう。『大日本史』とは、その実験の器だったといえるでしょう。
- 
			※2水戸学。江戸時代、水戸藩で形成された学問体系。朱子学に基づく儒学的秩序観を根幹としつつ、国学や陽明学の思想も融合されている。尊王攘夷思想の源流ともなり、幕末の思想的潮流に大きな影響を与えた。
 
「六国史」の断絶と3代天皇「徳なき天皇と災害の連鎖」
	そもそも「六国史」とは、古代の朝廷が中国のまねをして作ったものです。中国は、周や漢や唐と、次々と王朝が滅びては生まれますが、それぞれの王朝の歩みを絶えず記録して、歴代の権力がその記録をオーソライズすることによって歴史を積み上げていきました。国家が正史を編さんするのが文明国の作法というわけです。日本もこれをまねして正史としての「六国史」を編さんしてきたのですが、『日本三代実録』(901年)で、突然断ち切れてしまいます。7番目は編まれなかった。なぜか。天皇中心で国家が自ら歴史を編む意義が薄れていたからです。藤原摂関政治が定着してゆき、国家が「公」より「私」へと傾いてゆく。荘園という「私」の領土が増殖し、中央の官庁は形骸化する。公文書を全国から集めて正史を作ってきたわけですが、その前提となる中央集権のしくみ自体が崩れ、国家は公式の歴史をもたなくなっていきます。以後の史料となると「四鏡」や貴族・寺院の日記などしか残らなくなる。災害史でさえ『日本三代実録』までは日付入りで明確な記載があるのに、その後はとてもわかりにくくなってしまうのです。
	では、「六国史」の最後になった『日本三代実録』は何を伝えているのか。内容は清和天皇・陽成天皇・光孝天皇の3代の正史。編さんを命じたのは宇多天皇、撰者は源能有、藤原時平、大蔵善行、菅原道真など。実務を中心的に担ったのは菅原道真でしょう。貞観時代の干ばつ・疫病の大流行、富士・阿蘇の噴火、各地の大地震。応天門の変による藤原氏の権力拡大。渤海使来訪を契機とする疾病も広がる。そして貞観地震。約1000年後に東日本大震災と重ねられる、あの巨大津波の記録です。さらに九州では新羅海賊の襲来。短い期間に、自然・外敵・政変の波が一斉に押し寄せます。これがなかなか類例のない頻度なのです。この時期の日本は明らかに異常でした。千年に一度くらいの。
	この事態を当時の人びとがどう理解したか。重要な鍵となるのが「帝徳論」です。皇帝というものは、天から地を支配することを委託されているのであって、皇帝の徳が高ければ人の世もうまく治まり、火山の噴火や、大地震、干ばつなども皇帝の徳が高ければ起きない。中国発のこの観念が日本にも入り、天皇の正統性にも大きな影響を及ぼしました。結果、清和天皇は自らの徳の至らなさをわび続け、若くして退位し、修行に沈み、夭折します。
	次が陽成天皇。災害は減るものの、宮中で高位高官の殺人事件が生じ、徳の高さを疑われたということか、藤原氏により退位させられてしまう。2代続けて、天皇の権威は大きく傷つきます。そこで、だいぶんさかのぼって、清和天皇のおじになる光孝天皇が即位します。ところが即位から間もなく、中部から西日本を一挙に襲ったと推定される巨大地震が起き、その渦中で病によって崩御してしまう。跡を継ぐのは宇多天皇。彼は一度、臣籍に降下して源姓の源定省となっていた人物です。極めて例外的に皇籍に復帰したのです。そこで宇多は「天皇中心」を立て直そうとし、菅原道真を登用して藤原氏をけん制し、六つ目の正史を編ませました。ところが、その『日本三代実録』の語る3代の現実こそ、天皇中心国家の制度基盤が崩れつつあることの証明になってしまった。ここで「六国史」は止まります。
	以後はどうなるか。藤原氏による国家の私化が進み、寺社も特権を主張し、荘園が広がる。守るために武士が発達し、武家の世へ。やがて平家・源氏、そして徳川へ。この長い流れの入り口に「六国史」の断絶があったのです。そこで国史を貫く背骨がなくなったともいえる。一つの国がこわれていく。そこで国家の大義を復活させようとしたのが光圀の始めた『大日本史』のプロジェクトでした。水戸藩の存在理由を歴史哲学化する試みであったのですが、それが結局、水戸藩を滅ぼし、近代天皇制中央集権国家をつくる呼び水となったわけです。
現代に差し込む歴史の陰「災害ニヒリズムと制度不信の再来」
	日本は、ところどころ継ぎ目が裂けやすい国です。その一つが、清和・陽成・光孝、そして宇多へ至る流れです。歴史を編むことによって日本の正統性を保とうした宇多天皇ですが、その頃からもう藤原氏の権力拡大は止まらず、以後は『源氏物語』的な世界へ滑り込んでいく。ここで「公」は衰え、「私」に流れ、そのかたちは崩れていきます。
	この崩壊を逆流させようとして、時代を経て徳川光圀が現れます。天皇中心を掲げ、『大日本史』を編む。水戸藩の正統を守るための思想が、皮肉にも王政復古を推し進め、結果として水戸自身の解体の論理を抱え込む。水戸学とは尊皇の先兵でありながら、あくまで水戸藩が大事な思想なので、維新に向かってまとまることはできず、内紛を激化させて人材を失い、維新のときにはもう力が残っていない。水戸学で育てられた尊皇家の徳川慶喜が最後の将軍であったが故に、戊辰戦争が比較的短く終わったということはありますが。
	さて、この水戸学の思想は昭和の戦時下には極めて大きく機能します。映画『陸軍』は、『大日本史』を掲げて天皇への忠誠を説く。徳川光圀公のおかげだ、というわけです。けれど私が強調したいのは、やはり帝徳論です。皇帝の徳が天地万物を左右する。この中国的な枠を日本に当てはめ、災害までも天皇の徳に帰す社会をつくると、日本の場合、制度自体が自壊に向かいます。人災はともかく天災に関してまでとなると日本のような国では帝徳論は無理なのです。清和朝の連鎖災害と政治混乱は、その見取り図をはっきり示します。そしてこの構図は、不気味なほど平成・令和の時代に響きます。今は帝徳論の時代ではないけれど、尋常ならざる災害の多発が国を変えてしまうことがあるということですね。
	光孝天皇時代の巨大地震(東海・東南海・南海の連動と推定)が起きたのが887年。東日本大震災に相当する貞観地震から、ざっと二十数年。歴史は映し鏡ではありませんが、そういう幅で起きています。南海トラフ地震が来ればすべて無に帰す。そんな“災害ニヒリズム”が、今の日本の意欲をむしばんでいないか。刹那主義化している一つの原因なのではと思っています。
	しかし、これは約1000年前の話で、時代も前提も制度も違います。それでも、国が「公」を失ったときに何が起きるか、そして「公」をもう一度編み直そうとした試みがどこへ向かったか。その輪郭だけは、頭の隅に置いておいてもよいのではないかと、静かに思っている次第です。
	Text by Seiko Yamazaki
	Photographs by Masaharu Hatta
大澤真幸座長の視点
	片山杜秀さんの講演のタイトルは、恐ろしいものだった。「国のこわれ方」。しかし、「知」のエンタメ性をこれほど感じさせてくれる講演は、ほかではほとんど聴くことができないだろう。
	
	戦中に戦意高揚のための国策映画として製作されながら、ある理由からほとんど公開されなかった映画の話題から始まり、その映画の中で一瞬言及されている『大日本史』を編さんした水戸藩へとまなざしを転ずる。どうして水戸藩は『大日本史』を編さんしたのか。そして、『大日本史』が、それを継承しようとしたところの、「六国史」最後の一書、平安時代の『日本三代実録』へと一気に時代をさかのぼる。『日本三代実録』が伝えている3代の天皇(清和・陽成・光孝)の時代、これが講演の中心的な主題であった。
	片山さんの講演は、大きく時間を隔てた三つの時代を、まことにスピーディにさかのぼりつつ、鮮やかに関係づけながら、楽しく解説していく。該博な知識と、自身の歴史解釈に対するよほどの自信がなければ、こんなことはできない。
	だが、古い日本の話が、今の私たちにどう役立つというのか。そう思う人もいるかもしれないが、実際には、これほど現在の私たちにとって有用なものはない。どうしてか。日本に限らず、どの文化・文明も「歴史の定数」とも言うべき、社会の基本的な型のようなものをもち、それはかんたんには変わらない。私たちが、自らの伝統を生かそうとする場合にも、逆に大きな変革を目指す場合にも、この「歴史の定数」こそがターゲットになる。片山さんの講演も、日本史における「定数」(の一つ)を抽出するものである。その定数とは何だったのか?
	前振りに登場してきた水戸藩の話題と『日本三代実録』の時代の政治との間に、対照性があることがポイントである。どうして水戸藩が、水戸学なる独特の学問を構築し、『大日本史』という「正史」を(勝手に)編さんしようとしたのか。その動機となった水戸藩の武士たちの不遇感について、片山さんはわかりやすく解説している。そのベースには、結局、「私たち(江戸時代の武士たち)の主人は誰なのか」がはっきりしないということがある。徳川将軍なのか、それとも天皇なのか。水戸藩は、主人の地位を前者から後者に移そうとした。
	誰が主人なのかあいまいになったのは、いつからなのか。それこそ、『日本三代実録』の時代である。このとき、政治の実権が、「天皇」から「藤原氏」に決定的に移行した。つまり藤原氏という特定の家系による国家の私化である。国家を実質的に支配する「私」の主体が、時代とともに変化し、17世紀には、徳川家になっていた。
	日本史における「歴史の定数」とは、支配の正統性の脆弱性である。その原因は、「公/私」の境界があいまいだということにある。両者の区別が相対的で、「公」はすぐに「私」の方へと崩れていく。
	「公」は、もちろん、中国に由来する概念だが、中国では、「公」は「天」に裏打ちされているため、私的なものとの区別は絶対的なものになる。しかし、日本は中国の多くの思想や制度を模倣したが、「天」の概念は導入しなかった。そのため、日本人にとって「公」は、定かならぬものになった。それは、包括的な「家(私)」とどう違うのか(ちなみに、「おおやけ」は「大きな家」という意味だ)。
	「公/私」の区別の相対性――「私」とは絶対的に区別された公的なものの不在――は、今日でも、日本の政治の特徴である。政治は基本的には公的なものである。しかし、日本人は、私的な利害の間の葛藤や調整を超えた政治というものを想像できない。こうした歴史的な前提の上で、私たちはどうすべきか、はこれからの課題だ。
	片山さんが講演の主題として、自身の専門である近代史ではなく、『日本三代実録』の時代を選ばれたのは、この時代に、およそ1000年前の「南海トラフ地震」があったからである。現在、日本人は、近い将来ほぼ確実に到来するとされている南海トラフ地震を前にして、刹那主義的なニヒリズムに陥っている。だとすれば、1000年前のことから、何らかの教訓を得られるはずだ、というのが片山さんのもくろみである。
	考えてみると、この事情は、日本だけではない。人類全体、地球全体が、多様なタイプの破局(生態系、核戦争 etc.)へと引き寄せられているような状況だ。私たちは、片山さんの講演から、さらに地球的な危機にどう対応するかという教訓も得られるかもしれない。
		片山杜秀 かたやま・もりひで 
			慶応義塾大学法学部教授、水戸芸術館館長
			1963年宮城県仙台市生まれ。評論家。2008年『音盤考現学』および『音盤博物誌』(共にアルテスパブリッシング)で吉田秀和賞、サントリー学芸賞を受賞。2012年『未完のファシズム』(新潮社)で司馬遼太郎賞を受賞。NHKFM「クラシックの迷宮」のパーソナリティを務めている。2012年から吉田秀和賞審査委員。2023年から水戸市芸術振興財団理事。2024年水戸芸術館館長に就任。著書に『大楽必易―わたくしの伊福部昭伝―』(2024年、新潮社)、『歴史は予言する』(2023年、新潮社)、『尊皇攘夷―水戸学の四百年―』(2021年、新潮社)、『平成精神史』(2018年、幻冬舎)など。
		
	
	大澤真幸 おおさわ・まさち 1958年長野県松本市生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。個人思想誌『THINKING「O」』主宰。現在、『群像』(講談社)誌上で評論『〈世界史〉の哲学』を連載中。著書に『〈世界史〉の哲学 現代篇2 アメリカというなぞ』(2025年、講談社)ほか多数。