グローバル文明の没落と日本
―Future Impact Forumより―

本年度より発足した、多様な識者が集う知のコミュニティ「Future Impact Forum」の記念すべき第1回目は、『神なき時代の「終末論」』(2024年、PHP研究所)など、現代社会を思想的、歴史的、かつ文明論的に論じてきた佐伯啓思氏(京都大学)をお招きし、長年の省察と近年の生活変化に対する実感を踏まえ、現在考えておられることを語っていただきました。

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グローバル文明の没落と日本

最近の自分の身近な世界を振り返ってみると、「グローバル化」の影響でHappyなこと、Unhappyなことが同時多発的に起きていることに驚かされます。たとえば私が住んでいる京都ではオーバーツーリズム問題が発生しました。世界各地から観光客が押し寄せ、観光収入により地域経済は確かに潤いだしています。その一方で、地元市民のあいだでは市バスに乗れない、駅の窓口で数十分も待たされるといった不便が日常化しました。地域社会のWell-beingの持続可能性が脅かされるという事態になりつつあるのです。

また自身が奉職していた大学という教育現場でも、外部からの研究資金獲得競争の激化によって、本来の研究以外の業務が著しく増加しました。研究資金を獲得すれば、学生の確保や大学のランキング向上につながるということですが、表面的には好循環に見えるこのロジックもその背後では教職員に研究・教育活動の過度の負担がかかり、表面的な業績主義だけが幅を利かせて、実利はほとんどありません。経済的便益と生活の質とあいだのバランスの崩れが、生活実感としてここでも観察できます。

私はこの二、三十年、グローバリズムのなかで「新自由主義」が席巻する国内外の情勢を前にして、「神なき時代」において、ユダヤ・キリスト教の「終末論」的世界観が底流としてうごめいているのではないか、という関心をもってきました。現在、国際関係においては、ロシア-ウクライナ間やイスラエル-パレスチナ間の激しい武力衝突が、連日、ニュースをにぎわせています。これらの紛争は、表面的には領土紛争で、また資源や政治的影響力をめぐる争いに見えますが、その根底には文明的な価値観の衝突が見え隠れしている、と思われます。たとえばプーチンの政策や思想を支える理論的支柱の一人にアレクサンドル・ドゥーギンという保守派の思想家がいます。彼は、西欧のリベラルな価値観とアメリカ主導のグローバリズムに対する根本的な疑義を唱え、アメリカを中心とした価値観のみで世界秩序が形成されることに反対し、「ネオ・ユーラシア主義」と称して、ロシアは独自の文明圏を形成すべきだと主張しています。価値多元主義というのであれば、こうした思想の存在も、少なくとも議論されるべきでしょうが、現実世界では両者は相いれず、武力闘争が起きる事態に至っています。

世界状況と同様に「グローバル化」は日本においても社会のさまざまな位相に入り込み、行き過ぎた新自由主義が社会を席巻し、その価値観に従わないような生き方がなかなか許容されない社会になりつつあります。徹底した自由主義が逆に不自由で窮屈な社会をもたらすのです。そのおかげで、日本でもそこかしこで社会にゆがみを来たしているように思います。このように国内外の状況を見る限り、特に1990年代以降世界を席巻してきた「グローバリズム」は限界まで来ており、グローバル文明はいまや衰退しつつあるのではないでしょうか。

グローバリズムの本質

グローバリズムの歴史的起源は、地球が地理的につながった15~16世紀の大航海時代にさかのぼりますが、その本質的な特徴であるグローバルな思想や価値観の世界的な浸透は、1990年代以降の現象として理解する必要があるでしょう。ソビエト連邦の崩壊による冷戦終結は、アメリカ主導の資本主義的価値観が世界を席巻する決定的な契機となりました。アメリカ型グローバリズムの特徴は、自由な個人による市場競争に基づく効率的な資源配分を最重要課題とする点にあります。この価値観の下では、社会的価値のほとんどが市場における交換価値に還元され、効率性や生産性が至上の価値観と見なされます。また、LGBTQをはじめとするあらゆる差異を解消して世界をフラット化し、対等な個人による対等な競争が求められます。小さな国家と規制緩和の推進が唱えられ、自由な個人の活動を阻害しない最小国家が理想とされました。「新自由主義」と呼ばれる考え方は、単なる経済理論にとどまらず、今日、人間や社会のあり方そのものを規制する包括的な思想体系になっていったのです。またこの思想システムを支える数値主義、データ主義の浸透も今日の文明の特徴でしょう。意思決定基準は、社会の伝統や人びとの経験則ではなく、数値化されたデータ分析、客観的な科学主義へと急速に移行しつつあります。

ここで考えたいのが、今日のグローバリズムは、自由や富の無限の拡張運動と不可分だということであり、しかも、今日、アメリカは、自由や富の無限の獲得を「普遍的な理念」として世界各地に拡散しているという点です。その背景にあるものは何か、それが気になります。そこで複数の思想的源流が考えられます。第一には人間の本能的欲求です。優越への欲望や所有への渇望、競争心といった欲求は、市場原理との強い親和性をもっており、自由や富の拡張運動と無関係ではありません。第二には、資本主義システムそのものがもつ自己増殖的な性質です。市場の拡大による利潤の最大化をめざす企業活動は必然的にグローバルな展開を志向することになるでしょう。第三に、啓蒙主義、科学革命、市民革命、産業革命などの西欧近代主義の諸潮流も、合理的思考と進歩への信念を植えつけてきました。自由の拡大も経済成長も近代の科学技術の発展と無関係ではありません。

しかし私見では、潜在的で目に見えるものではないのですが、より本質的な影響力をもっているのはユダヤ・キリスト教的な救済思想だと思います。古代エジプトで奴隷だったユダヤの民を神が選びだし、戒律厳守の見返りにユダヤの民にカナンの地(パレスチナ)を与えるという旧約聖書の物語は、神との契約を実行する選ばれた民のみが救済されるという選民的な歴史観を生みだしました。この選民思想はキリスト教によって人類へと拡張され、徐々に世俗化されてきたとはいえ、中世から近世にかけてヨーロッパ全体に浸透し、さらにアメリカの建国理念に強い影響を与え、アメリカ社会の信念体系の原型となりました。アメリカが自らを「世界の自由と民主主義の守護者」として位置づける際の特権的な発想の基底ともなっているのではないでしょうか。

特にアメリカにおいてネオコン(新保守主義)と呼ばれる政治勢力の思想に着目すると、この傾向が顕著ではないかと考えます。単純化のそしりを恐れずに言えば、ネオコンの思想的源流の背景には、旧約聖書的な一神教のメシアニズム(救世主待望論)が横たわっているように思います。社会を善と悪との二元的な対立と見なし、歴史を終末論的に構成し、最後は「選ばれし者」が救済されるという旧約聖書的思想が根底にあり、冷戦後のアメリカ中心の一極支配を旧約聖書の「選ばれし民」の勝利として解釈し、グローバル市場の拡大を旧約聖書の「約束の地」の現代的解釈で捉える。もちろん、神も聖書も出てきませんが、「神なき時代」の現代において、そこには暗黙裡のうちに旧約聖書の宗教的思考様式の痕跡を色濃く見てとることができます。善と悪、友と敵、選ばれし者とそうでない者。アメリカ的価値の世界への流布。フランシス・フクヤマの言う「歴史の終わり」※1というユートピア、その実現こそ世界秩序の達成であり、それをアメリカの軍事力によって維持するという世界観は、「自由と民主主義」という「普遍的価値」の主張へと変形され、今日、われわれの世界認識にさえ大きく影響を与えるとともに、世界各地で深刻な摩擦を生むに至ったように思われるのです。

たとえば、イスラエルの存在の正当性を認め、介入し続けるアメリカの中東政策は、地域の複雑な歴史的・社会的文脈を軽視することにつながり、パレスチナ問題を生みだしています。明らかにここには宗教的要因があります。また、ロシアと欧米のあいだには、ただ国際法上の問題だけではなく、文明観の対立が尖鋭化しています。

今日、自由や民主主義のリベラルな価値は「普遍的」と言われますが、「普遍的」という言葉の語源を考えることは示唆的でしょう。英語のUniversalは、ラテン語のVersus(方向に向かわせる)とUni(一つの)の組み合わせであり、「一つの方向に向かわせる」ことを意味します。今日、事実上、これはアメリカ的価値観の方へ向かうことを意味してしまっています。しかし、Uniはもう一つUnifyをも意味し、これは、多様なものを一つに結びつけるということです。グローバリズムも、画一的な価値へ方向づけられた「画一的グローバリズム」と、多様な価値を結びつけた「多元的グローバリズム」があるはずです。今、改めてより大きな枠組みで世界を捉えなおす必要があると思われるのです。

新たな潮流を興す日本的価値観の可能性

このような状況下で、アメリカ的価値観の「普遍性」を無批判に受け入れるのではなく、多様な文化と新たな共生の可能性を探るとき、私が改めて着眼したいのは日本の価値観です。

日本文化に根づいたアニミズム的な世界観は、自然界のあらゆる存在に霊性を見いだし、人間と自然を非対立的に捉える思考を育んできました。「なすがままに任せる」という無為自然の思想は、物事の自然な成り行きを尊重しつつ、必要最小限の介入で調和を保つという積極的な知恵を含んでいます。日本における仏教の発展も重要な示唆を含んでいるでしょう。法然によって大成された浄土宗は、大乗仏教が中国から日本に伝来する過程で日本の土着思考と相まって思想的に変容し、「念仏によってすべての衆生を救済する」という独特の救済観へと変貌を遂げました。在家の人びとも、あるいは、悪人こそが、南無阿弥陀仏さえ唱えれば平等に救済されるとする、身分や学識、戒律の厳守などの諸条件の一切を超えた救済観は、キリスト教の選別的な救済観とは対照的です。また仏教には、生きながらにして一切の欲望を断ち切り物事への執着を手放すことを説く「解脱」を目指すという考え方があります。仮に現代を「アメリカやヨーロッパが自らの救済観への執着によって世界各地で引き起こしているゆがみと、それが次世代に引き継がれてしまうリスクが顕在化した時代」と捉えた場合、解脱もまた、異なるアプローチの存在の手掛かりとなるのではないでしょうか。

科学技術の進展と国際社会の変容が加速し、改めて価値観の多様性と多極共存・共生と統合(Unify)の可能性の探索が問われる今日、キリスト教的な救済観とは本質的に異なる世界理解を示す日本のさまざまな価値観は可能性を秘めています。過去に大きな文明を築いた中国やインドにも、そうした価値観がある可能性があります。しかし、長年、西欧科学の言語で学び続けてきた日本人は、自分たちが日々の生活や成長過程で身につける素朴な、深層にある価値観や根源感情を言語化するすべをもっていません。しかしこうした日本の深層にある価値観や根源感情にこそ国際社会に新たな潮流を興す可能性があるのではないか、昭和を生きた世代からのこの問いかけが、新たな大きな物語のなかで思考を始めていただくきっかけとなればと願います。

  • ※1
    政治経済学者フランシス・フクヤマの著作『歴史の終わり』(原題:The End of History and the Last Man)。1989年に発表した論文「歴史の終わり?」からさらに具体的に考察し、1992年にFree Press社から出版された。原題を直訳すると『歴史の終わりと最後の人間』だが、日本語訳タイトルは『歴史の終わり』(2005年、三笠書房)。また『歴史の終焉』のタイトルで言及されることも多い。「歴史の終わり」とは、国際社会において民主主義と自由経済が最終的に勝利し、それからは社会制度の発展が終結し、社会の平和と自由と安定を無期限に維持するという仮説である。民主政治が政治体制の最終形態であり、安定した政治体制が構築されるため、政治体制を破壊するほどの戦争やクーデターのような歴史的大事件はもはや生じなくなるとする。そのため、この状況を「歴史の終わり」と呼んだ。

Text by Nakatsu Yukiko
Photographs by Masaharu Hatta

大澤真幸座長の視点

佐伯啓思氏の講演のもっとも重要なポイントは、現在のグローバリズムの真の源流――グローバリズムを駆り立てている究極の要素――は、ユダヤ・キリスト教の終末論的な救済観にある、という主張である。たとえばアメリカは、この救済観の図式に基づいて「選ばれし者」として振る舞っている。もちろん、彼らはそのように公言はしない。しかし、この図式に基づいて行動している。そうだとすると、これは驚くべき真実だと言わざるをえない。

日本人は、自分たちにはまったく無縁のゲームをやらされていることになる。日本はどうすべきか。このまま苦手な、負けを定められたゲームにつき合い続けるしかないのか。

絶望する必要はない。佐伯氏によれば、ユダヤ・キリスト教の世界観の外にいるからこそ、日本には役割がある。日本的価値観、たとえば自然界のすべての存在に霊性を見るアニミズム的な世界観や、「なすがままに任せる」とする無為自然の思想には、ユダヤ・キリスト教的な救済観を相対化し、乗り越えるポテンシャルがある。

ただ、このポテンシャルをアクチュアルなものにし、グローバリズムを超えていくためには、「言語」が必要だ。日本的価値観を西洋の人びとに伝え、グローバルな価値観の再編を促すための言語。私たちはまだそのような言語をもってはいない。この言葉を見いだすことが次の課題となる。佐伯氏はそのように暗示された、と私は解釈している。

 

佐伯啓思 さえき・けいし 京都大学人と社会の未来研究院 特任教授
1979年、東京大学大学院博士課程(経済学研究科)を退学後、広島修道大学、滋賀大学を経て1993年より京都大学大学院人間・環境学研究科教授。2015年 に退職後、京都大学名誉教授および京都大学人と社会の未来研究院特任教授。
最近の著書:『経済成長主義への訣別』(2017年、新潮社)、『近代の虚妄』(2020年、東洋経済新報社)、『神なき時代の「終末論」現代文明の深層にあるもの』(2024年、PHP研究所)など。

大澤真幸 おおさわ・まさち 1958年長野県松本市生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。
現在、月刊個人思想誌『大澤真幸THINKING「O」』刊行中、『群像』(講談社)誌上で評論『〈世界史〉の哲学』を連載中。著書に『資本主義の〈その先〉へ』(2023年、筑摩書房)ほか多数。

 
 
 

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