パイオニアの原点 | 藤井直敬氏
今、現実と向き合う理由
今、現実と向き合う理由
「社会や未来のために活動する人びと」に焦点を当て、活動の原点を探る企画「パイオニアの原点」――第8回として、医学の世界からXR※1の分野に進出し、脳科学とテクノロジーを掛け合わせる医学博士・脳科学者の藤井直敬氏にインタビューをおこないました。活動を通じて目指したい社会像に迫りました。
聞き手:川村 健一、青山 公亮
「現実」に疑問をもった瞬間
――藤井さんは医学博士・脳科学者でありながら、XRの会社を設立後、大学での教育にも関わられていますが、なぜ今のような働き方になったのでしょうか?
2010年前後、理化学研究所で研究室をもっていた際にSR※2を体験したとき、テクノロジーによって現実がどんどん操作される時代が来ると感じました。現実は目の前にあり、誰かに「現実とは何ですか」と尋ねると、通常は「ここにある、みんな共通のものです」と答えます。しかし、AIやXRが普及しつつある今、「見ているものは本当に現実なのか」という問いが、真実を見つけるための指針になると感じます。そこで現実を科学や哲学として扱えるようにしようと始めたのが「現実科学」※3という考え方です。
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※1XR(Extended Reality:エクステンデッド・リアリティ):現実世界と仮想世界を融合させることで、現実にはないものを知覚できる技術の総称。VR(Virtual Reality:仮想現実)、AR(Augmented Reality:拡張現実)、MR(Mixed Reality:複合現実)、SRといった現実世界と仮想世界を融合させる画像処理技術はいずれもXRに含まれる。「X Reality」と表記されることもある。
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※2SR(Substitutional Reality:代替現実):現実の世界と過去の映像を混同させて、本来実在しない人物や事象が実時間・実空間に存在しているかのように錯覚させるシステム。
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※3現実科学:現実の本質を探求し、「新しい豊かな現実」を創造することを目指す学問。従来の科学が共通の現実を前提としているのに対し、現実科学は人びとが多様な現実を生きているという考え方を基盤としている。
――SRとの出会いが藤井さんの転機だったように感じるのですが、どのような流れでSRにたどり着いたのでしょうか?
大学院ではサルを使った神経科学の研究をしていて、当初はサル用のヘッドマウントディスプレイをつくっていました。当時の脳科学は、単一の脳だけを研究対象にしていました。一方、私は以前から、一人のときには何の問題もなくできることが、他者が存在するとできなくなってしまうことがたくさん出てくることに疑問がありました。そこで他者の存在によって認知や行動が影響を受けることを「社会性」と呼び、社会性を支える脳機能の理解を目指す研究をおこなっていました。
人に対しても社会性の研究をやりたいなと思ったときに課題がありました。人の反応に関する実験というと被験者にビデオを見てもらい、設問に応じてボタンを押してもらうような方法が一般的ですが、私がやりたいのは社会性の研究ですから、より人間らしい環境で実験したいと考えました。実験は決まった環境下でさまざまな条件を統制・コントロールする必要がありますが、例えば、50人の被験者に対して誰かが「おはよう」と言う場合、それぞれに同じように「おはよう」と言わなければなりません。与える刺激が変わると、被験者の反応も変わってしまうためです。何かうまく再現できるような方法はないのかと思っていたとき、開発したのがSRでした。それを使うと、目の前にいる人――360度の映像なのですが、ライブで見るカメラ越しの映像と、過去の映像を切り替えても気がつかないのです。さらに、過去の映像と今の映像をブレンドして50%ずつ混ぜると、同じ空間に二人の同一人物がいるような現実をつくれてしまいます。それを判別するには触るしかない。そのときに現実ってこんなにもろいのかと考えるようになりました。
「現実」を定義し、認め合う
――普通に生活をしていると、現実というのは当たり前過ぎて、問うことがないように思います。そこに疑問を抱いたという点が、今の藤井さんの活動につながっているのですね。
これからの世の中は、さまざまなテクノロジーが介入してきます。私たちは、ただ「影響を受ける側」になるのではなく、「行動する側」になることが重要です。ここでいう「行動」とは、技術のしくみ、特性、リスクを理解し、社会にサービスを提供することです。技術がわからなければ良いものをつくれないし、意図せず誤ったものをつくってしまう可能性もあります。また、フェイクニュースのような悪意のある情報を疑うことすらできなくなってしまいます。みなさんが適切に「それはだめ」「これはいい」と判断できる状況が、今後の社会に必要だと考えています。
――現実科学の先に、どのような社会を見据えているのでしょうか。
現実科学でみなさんに最初にお願いしているのは、「あなたの現実を定義してください」ということです――つまり、自分の起点です。そこで出てきた世界は、決してみんなに共通のものではなく、あなただけのものなのです。
自分の現実というのは自分のものでしかなく、それぞれの人が異なる起点から現実を生きています。だから、オーバーラップしているところもあれば、していないところもあります。ダイバーシティ※4やインクルージョン※5といった考え方が広まり、これまで社会で見過ごされてきた人びとの姿や声が受け入れられつつありますが、その手前で必要なのは、お互いの現実を認め合うことだと考えています。
例えば、イスラエルとパレスチナ、ロシアとウクライナの状況には明確な答えがありません。SFの世界では、人類を一度滅ぼしてやり直すというシナリオがよくありますが、現実ではそれは不可能です。だとしたら、あなたの現実を定義するところから世の中を再構築したらどうですかというのが、私がみなさんに提案したいことです。世界に存在する81億人それぞれが違う現実を生きていて、違いを認め合える社会のしくみに再構成すると、ゆがみが解消されるのではないかと思っています。
世界や社会のしくみはすぐには変わらないでしょう。ただし、一人一人の振る舞いが変わり、それが100人、1000人、1万人、1億人になったら、より良い社会に変わっていくのではないでしょうか。現実を考えることは、世界のゆがみを解消することだと考えています。
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※4ダイバーシティ(Diversity:多様性):人種、性別、年齢、宗教、性的指向、障害の有無など、さまざまな違いを尊重し、受け入れること。
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※5インクルージョン(Inclusion:包摂):多様な背景をもつ人びとが、平等に参加し、貢献できる環境をつくること。
豊かさは個人の内面にある
――藤井さんは「現実を科学し、ゆたかにする」というテーマを掲げて各界有識者と対談企画をおこなっていますが、藤井さんが考える「豊かさ」とは何でしょうか?
私が目指しているのは、現実を科学して豊かにするということです――「豊かになる」のではなく「豊かにする」。豊かさは金銭だけで語れるものではないと誰もが実感しているのではないでしょうか。豊かさをどのようにしてつくるのかを考えると、それは内面にあると思います――自分が考え、想像すること。それは誰にも邪魔されません。だから、つくること、考えることを、これからの人生の楽しみとして、その豊かさを享受すればいいと思います。そこはほぼ無尽蔵で、低コストで、自由に使えるのですから。
世の中のリソースは限られているので、消費するだけ、購入するだけでは限界があります。例えば、金や石油は限られた資源であり、それによる豊かさは、誰かが持っているものを自分のところに持ってくるしかありません。今の世界では豊かさを奪い合う側面もありますが、本来の豊かさというのはあなたの中にあり、それをデジタルテクノロジーがサポートしてくれる。そういう世の中に今ようやくなったので、私はこれからの世界はもっと豊かになれると思います。
――日本に関していえば化石燃料や鉱物などの資源が乏しいため、人が生み出すクリエイティビティや、先人たちが積み上げてきた文化こそが、この国の価値なのだと思います。
それは別に、人に見てもらわなくてもよくて、自分の中から湧き出てくるものを自分自身で実感することが一番大事です。今、囲碁や将棋にしてもコンピュータのほうが強いじゃないですか。でも、プロ棋士には価値があります。自分の脳という限られたリソース、制限がある中で高みを目指すという行為にこそ、楽しさ、感動、ドラマがありますから。
――スポーツもそうですね。走るのも機械のほうが速いのに。
そう、機能として考えると人が走る意味はありません。問題は機能ではなく、そこに楽しさ、感動、ドラマがあるのかどうかです。みなさんが豊かになってほしい。そのためにみなさんが石油王になる必要はありません。
社会における価値とは
――社会のために何をなすかという藤井さんの視点には、知的好奇心以上の背景があるように感じました。なぜそのような意識が芽生えたのでしょうか?
多くの研究者は、まず知的好奇心が先にあります。特に基礎研究の分野では、研究結果をすぐに実用化することを目的としていません。大学院を出て、MIT※6に6年半ポスドク※7として在籍していたのですが、そのときに実感したのは、自分の研究があまり社会の役に立っていない――どうすれば社会に貢献できるのかという悩みでした。そのような意識が芽生えたのは妻の存在が大きいように思っています。妻はスタートアップの立ち上げのプロで、誰もが知っているようなグローバル企業の日本事業立ち上げを数多くサポートしていました。世の中に新しい価値をつくり出す人が身近にいたので、社会に目が向いていくのは必然でした。
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※6MIT(Massachusetts Institute of Technology:マサチューセッツ工科大学):1865年に設置されたアメリカ合衆国マサチューセッツ州ケンブリッジに本部を置く私立工科大学。歴代のノーベル賞受賞者は101人(2024年9月時点)と、工科大学としては世界最多。MITメディアラボなど51の研究機関を擁する。
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※7ポスドク(Postdoctoral Researcher、Postdoctoral Fellow、Postdoc):大学院博士後期課程(ドクターコース)の修了後に就く、任期付きの研究職ポジションのこと。
――資本主義の下では短期的な利益に目が行きがちですが、基礎研究のような未来をつくる価値が評価されづらくなっていて、それが日本の科学技術力の低下を招いている側面もあるように思います。世の中には、資本主義的な価値と、そうではない価値があり、資本主義的な価値だけで判断するのはリスクだと感じています。
研究の価値を資本主義的な文脈だけで判断した結果、研究の現場では、あるべき過程や必要な評価が失われつつあります。社会に有益な研究成果や技術を生み出すのは本当に一握りです。しかし、その高みに到達するためには、広い裾野をもつコミュニティを築き、それがしっかりと積み上がってトップが出来上がることが重要です。これは、もうかるかどうかという話ではなく、社会として必要不可欠なことです。現実を資本主義という一つの物差しだけで測らないことが大切です。
――藤井さんのこれからの活動の中で価値を示していくにあたって、意識していることは何ですか?
これまでSRという技術は、十分に評価されていなかったように感じます。しかし、Meta Quest 3※8やApple Vision Pro※9など、ビデオパススルー※10機能をもつデバイスの登場により、ようやく私の主張が理解されるようになってきました。最近では、ロボティクスの研究者やAIの開発者など、研究者が多発的に「現実って何だろう」という問いを投げかけています。私は、研究者や開発者を取りまとめる一つのキーワードが「現実」だと考えています。それぞれが異なる言葉で同じようなテーマに取り組んでいますが、これまでは大きなブロックと小さなブロックがうまくかみ合っていませんでした。粒度を合わせることで、ブロックがしっかりとはまり、積み重ねていくことができると考えています。だから、「現実とは何か」というキーワードを軸にして考えると、さまざまな研究者が取り組んでいることがうまくつながるようになります。異なるジャンルが交わるところに新しい価値が生まれますから、そういう場面をつくりたいという意識が今は強いですね。
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※8Meta社のリアリティ・ラボ部門が開発したVRヘッドセット。新たに追加されたカラーパススルー(MRモード)機能により、現実の景色をヘッドセットのカメラで取り込み、バーチャル空間上に映像として再現。現実の景色にバーチャルコンテンツが本当に出現したかのような体験が可能になった。
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※9Apple社が開発したMR(Mixed Reality)ヘッドセット。高解像度ディスプレイと先進的なセンサー技術を搭載し、現実世界とデジタルコンテンツをシームレスに融合。現実の環境にデジタルオブジェクトを重ね合わせることで、没入感のあるインタラクティブな体験を楽しむことができる。直感的な操作性に重点を置いている点も特徴の一つで、これまでのVRデバイスは両手にコントローラーを持って操作することが一般的だったが、Apple Vision Proはコントローラーを使用せず、ジェスチャーと視線で操作する。
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※10ビデオパススルー(Video Passthrough):現実世界の映像をカメラで取り込み、ヘッドマウントディスプレイなどのデバイスに表示する技術。これにより、ユーザーは現実世界と仮想世界をシームレスに行き来することができる。
――技術の進化に伴い、フェイクニュースのようなものが、これから増えてきて、より「現実」を考える機会が増えるようになると思います。未来の研究者に対しての橋渡しにもなっていきますし、現実を問うことは基礎研究になりますね。
最後に、未来のパイオニアに対して一言お願いします。
まず、やめないこと。諦めないで続けてください。うまくいくかどうかはわからないけど、やめてしまうと、どこにも行けない。だけど、やめなければ、どこかにたどり着くかもしれない。次に、一緒に走ってくれるパートナーが大事です。一人だと心が折れてしまう。新しいことをやるのはつらいですから。
インタビューを通して
圧倒的な創造性の裏には、実は二人の人間がいる。スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアック、ジョン・レノンとポール・マッカートニー、本田宗一郎と藤沢武夫など、彼(彼女)らはお互いの現実を認め合い、ときに意見をぶつけ合うことで卓越したクリエイティビティを発揮し、世界に感動を与えてきた。藤井氏もまた、妻でありビジネスパートナーでもある太田良けいこ氏から「あなたの研究は何の役に立っているのか」と問われ続けてきたという。現実のもろさと、異なる現実を認め合うことの重要性を誰よりも理解している藤井氏だからこそ、現実を問うこと、そしてパートナーの存在を特に大切にしているのだろう。藤井氏の取り組みが、どのような現実をもたらすのか、注目したい。
Text by Ken-ichi Kawamura
Photographs by Hirokazu Shirato
藤井直敬 ふじい・なおたか 医学博士・脳科学者
東北大学医学部卒業。同大大学院にて博士号取得。1998年よりマサチューセッツ工科大学(MIT)、McGovern Institute 研究員。2004年より理化学研究所 脳科学総合研究センター 副チームリーダー、2008年よりチームリーダー。2014年株式会社ハコスコ創業。2018年よりデジタルハリウッド大学大学院教授。主要研究テーマは「現実科学」。
川村健一 かわむら・けんいち 電通総研 研究員・プロデューサー
埼玉県生まれ。2023年1月より電通総研。クリエイティブディレクター、クリエイティブテクノロジスト、アートディレクター、デザイナー、ビジュアルアーティスト等のキャリアを活かし、「アート」「イノベーション」「次世代」などをテーマに活動。著書に『ビジュアルクリエイターのためのTOUCHDESIGNERバイブル』(2020年、誠文堂新光社)がある。
青山公亮 あおやま・こうすけ 電通総研 研究員・プロデューサー
2023年1月より電通総研。主な活動テーマは「ケア」「社会システム」。PRプランナーの実務経験と社会科学研究のバックグラウンドを生かして研究活動をおこなう。