パイオニアの原点 | 別所哲也氏
日本発の国際短編映画祭を立ち上げた理由

「社会や未来のために活動する人びと」に焦点を当て、活動の原点を探る企画「パイオニアの原点」――第2回として、ショートショート フィルムフェスティバル & アジア代表 別所哲也氏にインタビューし、日本発の国際短編映画祭を立ち上げた思いや、活動を通じて目指したい社会像に迫りました。

聞き手:山﨑 聖子、中川 真由美、川村 健一

アクターとは「行動する人」

――別所さんは、俳優としての活動をされながら、ショートショート フィルムフェスティバル & アジア代表もされていますが、なぜ日本で国際短編映画祭を立ち上げようと思ったのでしょうか?

僕は1984~88年に大学生でした。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれ、右肩上がりに世界とつながっていく時代に東京で大学生活を送っていました。そのときに出会ったのが演劇でした。表現の世界で生きる楽しさを知り、俳優になりました。

大学を卒業して1年間俳優の仕事をしていたところ、ハリウッド映画のオーディションがありました。幸運にもそのオーディションに合格し、映画出演のために渡米しました。アメリカでカルチャーショックを受けたのは、当たり前のようにみんなが社会活動をしていることです。「貧困にあえぐ子どものため」「難病を抱えている子どもたちを応援するため」という大きなテーマから、「高齢者の家にお手伝いに行く」「子どもが通う学校のためにチャリティをやる」という身近なテーマまで、アメリカで出会った方々は、みんな何かしらやっている。アメリカにいると「君は日本では社会のために何をやっているの?」みたいな話になるのですが、当時の僕は何もやっていない、空っぽな人間で、「社会とつながる何かをやるってどういうことなのか?」みたいな感覚がありました。まだ若かったし、とにかくハリウッド映画に出演できるという経験こそが僕の全てで、正直なところ「まず自分が精神的にも経済的にも満たされて、余裕があるからこそ人のことを考えられるのでは?」と思っていました。

アメリカの演劇学校で、アクターとは「演技をする人」ではなく「行動する人」だと教えられました。アクトというのは行動だから、アクターというのは、他の誰でもなく、自分の人生を生きるということ。自分だからこそできる何かの行動をしなさいと。要するに「社会に向けて自分が何をし、何に寄与するかということを考えましょう」と言われました。

帰国後、俳優としてがむしゃらに仕事をしていたのですが、30代前半に壁にぶつかりました。いろんな役柄もいただいて、連続ドラマや映画にも出ているけれど、自分のためにスタジオと家を行き来しているだけだと思うようになったのです。アメリカの演劇学校で教わった、アクターとは「行動する人」という意味がようやくわかってきたといいますか、「このまま演技をするだけでよいのだろうか」「自分だからこそできる何かはないだろうか」という気持ちが少しずつ芽生え始めていました。

そのようなタイミングで再びアメリカに戻ったとき、それまでの自分とは接点のない、遠い存在だと思っていたショートフィルムと出会いました。それまで抱いていた映画の概念が根本から覆され、ここにこそ自分が行動できる未来があると思ったのです。それが国際短編映画祭を始めたいと思ったきっかけでした。

――ショートフィルムと出会い、映画祭をやりたいと思った点について、もう少し詳しくお聞かせください。どのような点に心を動かされたのでしょうか?

1997年の11月にアメリカでショートフィルムに出会ったのですが、その翌年の1月に、ロバート・レッドフォードが始めたサンダンス映画祭に友達が映画を出したというので国際映画祭に初めて行きました。

当時売れ始めたベン・アフレックとか、既に著名であったスパイク・リーとか、有名・無名・プロ・アマ関係なく、集う人びとが一つになって、学校の図書館や小さなコーヒーショップで、熱気ある映画談議をしていました。一般の人が「あなたの映画はわからない」と質問して、スパイク・リーが「どこがわからないのでしょうか」みたいなやりとりが自然におこなわれていたのが衝撃的でしたね。映画が好きという緩いつながりの中、わいわいやっていて、自分のできることをみんなが持ち寄っている。長編映画って大きいビルを建てる感じだから、人と人の距離感が離れていますし、思いついたことを実現できるのは3年後とか5年後です。それに比べてショートフィルムは早いケースでは3か月後、場合によっては2か月後とかに出来上がる。そんなコミュニティやカルチャーに魅力を感じて、ショートフィルムの映画祭を自分でやりたいなと思いました。

夢を実現する要素とは?

――「日本発」となるとたくさんの苦労があったかと思うのですが、どんな苦労をされて、どのように乗り越えたのか、お聞かせいただけますか?

短編映画って、今はインターネットで「ショートムービー」とか「ショートフィルム」と検索すればたくさん出てきますが、1998年当時はまだインターネット上に動画のプラットフォームなんてなかった。みんながパソコンを持つか持たないか、名刺にメールアドレスを記載するかしないかと議論するような時代でした。また、当時のショートフィルムはデジタルデータではなく、フィルムでした。そういう状況でつくられた15分とか20分ぐらいのショートフィルムを何本か見て、「映画は長さじゃない」と気づきました。短編映画をつくっているクリエイターたちは固定観念にとらわれていないというか、とにかく斬新なのです。今では当たり前ですが、結末から始まるショートフィルムとか、『パルプ・フィクション※1』みたいに、撮影した後にフィルムを切り刻んで編集で組み替えるとか、実写で撮ったものをアニメにするとか、そういうことがいろいろ起きていました。テクノロジーとしても面白く、クリエイターや俳優の卵とかもたくさんいて、とにかく熱気がすごかった。

  • ※1
    『パルプ・フィクション』(Pulp Fiction)は、1994年公開のクエンティン・タランティーノ監督による映画作品。ロサンゼルスで起こった犯罪エピソードがオムニバス形式で展開され、これらの時系列をバラバラにして描くという当時としては珍しい手法が使われている。
    1995年のアカデミー賞では7部門にノミネートされ、そのうち脚本賞を受賞。1994年のカンヌ国際映画祭ではパルム・ドールを受賞した。

ところが日本では、「短編映画、何それ?」「何でそんなの、今更見せたいの?」という状況で、当初は誰も振り向いてくれなかった。いくらショートフィルムの感動を語っても、当時の僕もまだ、ショートフィルムを見せたいという気持ちだけだったから、「何が面白いのか」「ビジネス上どういう収益モデルになるのか」「社会的にどういうインパクトがあるのか」、受け止める側にしてみたらイメージが湧かなかったのでしょうね。「アメリカへ行って、刺激的なものに出会って、熱を帯びてしゃべっているだけ」――そのように思われていたのだと思います。ある方に相談したときに「調子だけ合わせる人は何もしてくれないから、批判や批評、こうやったらいいのではないかと言ってくれる人と組みなさい。君がやることは着地させることだよ」と言われて目が覚めました。

24時間営業のファミレスに友達を引き込んで、こういうことをやりたい、ああいうことをやりたいと語り、自分で企画書もつくりました。南カリフォルニア大学に『スター・ウォーズ』のジョージ・ルーカスが在学中に撮ったショートフィルムが11本眠っているから、これをまず日本で見せたいと。有名になった人にも必ずはじめの一歩があって、ダイヤの原石みたいにクリエイターってこういうところから始まる。僕もどこの馬の骨かもわからない人間だったけれども、オーディションというしくみの中でチャンスをいただいたので、そういったものを映画祭でやりたい――そのように企画がまとまっていきました。

「捨てる神あれば拾う神あり」ということわざがありますが、言い続けることが大事ですよね。こもって悶々としていてもだめで、とにかく、こういうことをやりたい、ああいうことをやりたいと言い続けていると、「どこに行き着きたいの?」「誰のためになるの?」「どんなお客さんに来てほしいの?」とか、そういう質問攻めに遭うことで、自分もクリアになっていって、こういうことをやりたい、ああいうことをやりたいということが見えてくる。

そんなタイミングで、偶然ある企業の役員の方と会いました。当時その企業は、インターネット上の音声配信の次に動画配信が来ると、次の時代を見据えていて、まずはショート・フォーマットのコンテンツに絞り実証実験しようと動いていた。その出会いがきっかけで歯車が一気に動き始め、アメリカ大使館も後援してくれるようになりました。僕が映画祭の実現に向けて動いていた1999年は、『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』が日本で上映された年です。その6月にジョージ・ルーカスが日本にいたこともあって、アメリカ大使館で開催されたパーティにサプライズで来てくれました。いろんなラッキーが重なり、1回目の映画祭が始まりました。

自分自身を動かすものは、これを何とか実現したいという「パッション」ですが、パッションの先に共感してもらえる「ミッション」がないと周りは動いてくれません。その上で、「アクション」を起こせば夢は実現できる。そのような過程を体験できたのは非常に幸運だったと思います。

誰かと分かち合いたいという欲求と、誰かのための行動

――俳優業で既に成功されていたことを考えれば、それで十分、あえて違う分野に手を広げる必要もないと考える方もいるのではないかと思います。どのような思いが別所さんを突き動かしたのでしょうか?

ライスワーク、ライフワークという言葉がありますが、ライフワークという言葉があるのは、自分が食べていくだけでは人は満足できないからですよね。自分にとっての俳優とは、はたしてライフワークなのかと思ったのです。ライフワークというのは自己実現という枠を超えて「自分の外とどうつながっているのか」が根源的な問いなのだと思います。

僕も寂しがり屋ですが、人間みんな寂しがり屋だから、共感してもらえる人を探していると思うし、「自分が面白いと感じること」「未来を感じること」――そんなことを自分一人じゃなくて、誰かと分かち合いたいという欲求があるように思います。

例えば、自分はめちゃくちゃおいしいコーヒーに出会ったとき、誰かにシェアして「ここ、どう思う?」「やっぱり、おいしいよね」という感覚が欲しくなるのです。
 

――寂しさを満たすという意味では、最近は「SNS」や「推し活」がありますが、別所さんがおこなわれているようなコミュニティをつくることとは、似ているようで全然違う感覚があります。

「面白いと思ったことを拡散する」「推しがある」――そういう活動はとても幸せなことだと思います。ただ、ふと冷静になったときに「感覚の消費」のように感じてしまう瞬間があるというのはよく耳にしますね。

アメリカにいると小さい頃にお小遣いを三つのお財布に分けることを教わります。「自分が使うお財布」「貯めるお財布」「寄付するお財布」です。3万円が手元にあったら、1万円に3等分でもいいし、今回は2万円使うけど、5千円は貯金して、5千円は寄付しようとか、社会とコネクトしようと考える。小さいときから「人間は一人で生きていけない」「コミュニティの中で生かされている」「自分だけよくても社会全体がおかしくなったら、いずれ自分に跳ね返ってくる」というマインドセットが育まれるのではないでしょうか。「自分のために勉強をする」「誰かとコンペティションする」ということは力をつける過程ではもちろん必要なことですが、共に生きていくためのコミュニケーションや分かち合いみたいなことを同時並行で実践しているかが非常に重要だと思います。

自分のためだけではなく、自分以外の誰かのために自分が何を成しており、それが家族・仲間・コミュニティ・地域・社会にどのように役に立っているのか、そういう視点が人の心を満たすのであって「行動と感謝のフィードバックループ」の中に本当の豊かさがあるように思います。

違和感が新たな価値観を生む

――日本人の多くがチャレンジを回避しがちになっているのではないかと感じますが、現状に対してどうお考えですか?

今の世界って僕らの先輩たちが20世紀までにつくり上げたものに何となく惰性で乗っかっているだけなのではないかと感じるときがあります。今までのしくみがあまりにも大きいから、社会変革やイノベーションのように表立って変化しようとすると変わった人に見えてしまうのではないでしょうか。高度成長期って、みんなすごく均一的に見えたかもしれないけど、実はテレビも、ラジオも、あらゆる業種・業態がめまぐるしく動いていた。今の日本は過去のしくみから脱却できていないという実感はたしかにありますね。

僕がラッキーだったと思っているのは、俳優という表現の場は、絶えることなく変わってきたことです。「映画の時代」「テレビの時代」「インターネットの時代」みたいに、否応なしに変化せざるを得ない環境があって、なおかつ日本とアメリカの両方から見ることで気づかされることがいっぱいあって、「パッション・ミッション・アクション」のような感覚を得た。

アフリカのことわざに「If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together. (訳:早く行きたければ、一人で行け。遠くまで行きたければ、みんなで行け)」があります。これも僕の中で時々呪文のように唱えるのですが、人生でも、仕事でも、やりたいことでも、自分一人で走ると早いわけです。でもそれって結局、自分という存在が尽きると終わりますよね。ちょっと速度は落としても、仲間をつくってみんなで運び、みんなでやるというのが、サステナブルに社会とつながっていくことだと思います。ただ集まればよいのかというとそんなことはなく、パッション・ミッション・アクションを持った個の集団でなきゃいけないと思っています。そうした感覚って外に出てみることでクリアに見えるようになるから、「Think out of the box(訳:既存の枠組みにとらわれない)」という考え方も大切だと思います。

最近、「共感」という言葉が多いじゃないですか。僕は「違和感」にこそ真剣に向き合うべきだと思っています。もちろん共感は大切な感情ですし、そこから相手へのリスペクトが生まれると思うのですが、共感を共有できる人たちだけで集ったら、それ以上の新しいことは生まれないと思っていて、違和感とか異質だと考えられるものの中にこそ、新しい何かを生み出すヒントが詰まっている。

かつて僕も、映画といえば長編映画であり、ショートフィルムは関わりのないものと思っていました。でも、「違和感」「偏見」「先入観」――そのような無意識に遠ざけているものこそ、自分をさらに動かすきっかけになると気づいたのです。

「好きな映画を100回見なさい。嫌いな映画を100本見なさい」――これは、アメリカの演劇学校で言われた言葉です。好きな映画は共感として100回見る。なぜ自分はそれに引かれるのかということに向き合うわけ。ただ多くの人は好きな映画はたくさん見ますが、嫌いな映画はそんなに見ませんよね。だからこそ自分は一生見ないかもしれないと思うような映画を100本見る。まだタグ付けされていない感覚の中にこそ新しい発見があって、次を耕す原動力に必ずなると思っています。

緩やかにつながり合う社会をつくる

――最後に、仲間をつくるときのポイントや大事にしていること、どんな社会を目指しているのかを教えていただけますか?

人と接するときのポイントは相手をリスペクトすることです。人は誰しも僕にないものを必ず持っています。僕にあるもの、僕がやってきたこと、それらの全てがみんなの上位にあるわけでは決してないですから。

働くとは「人のために動く」と書きますが、近年ではまるで駒を扱うかのように「人を動かす」ようになっていて、それが社会にゆがみをつくっているのではないでしょうか。

今、本当に大切なのは水平思考だと思います。その中で自分がリーダーシップをとれることがあればやればよいし、他の誰かにリーダーシップをとっていただけることも当然あって、そういう状況を僕は「緩やかな連合」と呼んでいます。

僕にとっては、年齢・性別・国籍とか全く関係なくて、どのようなパッション・ミッション・アクションを持っている人なのかが一番大切です。みんながパッション・ミッション・アクションを持ちながら緩やかにつながり合い、違和感と真剣に向き合う結果として新しい何かが生まれていく。僕が目指すのはそんな循環のある社会ですね。

Text by Ken-ichi Kawamura
Photographs by Hirokazu Shirato
 

別所哲也 べっしょ・てつや 俳優・ショートショート フィルムフェスティバル & アジア代表
1965年、静岡県生まれ。慶應義塾大学法学部卒。1990年、日米合作映画『クライシス2050』でハリウッドデビュー。米国俳優協会(SAG)メンバー。その後、映画・TV・舞台・ラジオ等で幅広く活躍中。『レ・ミゼラブル』『ナイン THE MUSICAL』『ミス・サイゴン』『ユーリンタウン』などの大作・話題作の舞台に多数主演。2010年4月、第1回岩谷時子賞奨励賞受賞。1999年より、日本発の国際短編映画祭「ショートショート フィルムフェスティバル & アジア」を主宰。映画祭への取り組みから、文化庁長官表彰を受賞。観光庁「VISIT JAPAN 大使」、内閣官房知的財産戦略本部コンテンツ強化専門調査会委員、カタールフレンド基金親善大使、横浜市専門委員、東京観光大使に就任。内閣府「世界で活躍し『日本』を発信する日本人」の一人に選出。

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