クオリティ・オブ・ソサエティ2025
開かれた対話とは

コミュニケーション社会学の名著『他者といる技法―コミュニケーションの社会学』著者の奥村隆先生と、宝島社「このマンガがすごい!2022」オンナ偏・第1位に輝いた『海が走るエンドロール』作者のたらちねジョン先生に、今の時代どのように考え方や属性の異なる他者と対話をおこなっていけるのかについて、対談していただきました。

ファシリテーター:青山公亮、若杉茜

閉じた対話と、開かれた対話

――奥村
今日は「対話」をテーマにお話しするということですが、なんだか少し肩に力が入りますね。対等に話さなくちゃいけないとか、わかり合わなくちゃいけないとか…。人と人とが話すのは大事なことではあるけど、対話という言葉にすると「なくちゃいけない」といったニュアンスが入りこんで堅苦しくなってしまう気がします。私はコミュニケーションを研究する社会学者ですが、正直なところ自分自身は「対話」があまり得意ではないんです(笑)。今回初めて、たらちねさんの作品を読ませていただいて、登場人物による「対話」が狭い意味に閉ざされずに自由に開かれているところが素敵だなと感じています。

――たらちね
ありがとうございます。確かに対等な関係になれるのは理想ですけど、全てをわかり合うということは難しいですよね。私自身、「同じ考え方だよね、私達」と慣れ合う関係はあまり好きじゃなくて、むしろ違う人間だけど何かしら重なる部分をもてるという視点が大切なのだと思っています。いま連載をしている『海が走るエンドロール』 という作品は、うみ子という、夫と死別した主婦が主人公で、65歳から美大に入学し年の離れた学生達と共に映画制作の世界に進む物語なのですが、特にその要素が強いかもしれません。

――奥村
『海が走るエンドロール』は本当に面白いだけでなく、対人関係を考える上でもとても興味深い作品だと思います。映画制作という設定だけに、主人公のうみ子が他者と並んで何かを眺めるシーンが多いのが印象的でした。クラスメートが制作した映像作品、過去の名作映画を一緒に観るシーンや、砂浜に座り海を眺めるシーン…。「対話」というと双方で向かい合っている状態をイメージしがちですが、一緒に何かを眺めている状態は、それぞれの視線はお互いを向いていませんし、映像を観ている間は沈黙の時間も生じます。こうしたシーンは、対話のかしこまった要素から解放されて、開かれている感じがしました。


――たらちね
確かに2人で映像を観ているシーンが多いかもしれません。うみ子以外の登場人物の多くは10代や20代の大学生達です。うみ子が美大に入学して専攻する映画という共通項があることで、普通なら全く接点も生まれなかった年の離れたクラスメートと交わる瞬間が生まれます。そういったコミュニティの関係性を示すためのいわば儀式的な要素として、一緒に映像を観る場面を入れている面もありますね。例えば女子高生がプリクラ®を一緒に撮り合うことで友情を確認したりするのに近いかもしれないです。

――奥村
私が連想したのは、社会学者の石岡丈昇さんの『タイミングの社会学』 にあるフィリピンのボクシング・キャンプの話です。プロのボクサーやボクサー見習いがそこで共同生活をしているのですが、並び合って自分の衣類を手洗いで洗濯しながら、ボクシングの心構えや技術なんかを雑談するんですね。一緒に手を動かしながら、横に並んで話をする。そうすると、向かい合うよりも深い話ができることもあるわけです。

たらちねさんの作品では、もう1人の主人公とも言える男子学生の海(カイ)という人物とうみ子が並んで何かを眺めるシーンが反復して描かれています。隣り合って同じ映画を観ていたとしても、相手と感じているものが異なるかもしれない。そういった揺らぎの部分を含めて、一緒に映画を観るという行為を繰り返しながら、お互いの関係が深まっていったり、複雑になっていったりする。明らかに異なる2人の人間が並んで何かを眺めながら有機的な関係が築かれ、物語を駆動する。ここには対話が閉じずに開かれた状態が描かれていて、この作品をとても自由で力強いものにしている気がします。


――たらちね
65歳の主婦と男子学生という個性も属性も全く異なる人間が、同じような熱量があることで強いつながりが生まれるということがとても重要なのだと思いますし、そこに読者の方々からも共感を頂いているのだと感じています。横にいて並走してくれるという関係にはお互いを尊重する自由さも含まれる気がしています。もちろんお互いの熱意が常に一定なことはないはずで、お互いに再認識したり、時には片方からそれを感じられなくなることも含めて描いてきました。

自分に誠実であることと、相手に誠実であること

――奥村
たらちねさんの作品からは、対人関係における誠実さについても考えさせられます。例えば、うみ子は自身の映画制作の動機を問われて「老後の趣味」と自虐で答えてしまい、言った瞬間に内心激しく反省するシーンがあります。自虐という行為は自分自身にうそをつき、自分に対して不誠実であるという側面もありますが、一方で空気を読んで相手が理解できるように気を遣った上での行為とも解釈できますよね。


――たらちね
私自身も日々の生活で、とっさに自虐的なことを言ってしまうこともあるので難しいなと思います。ストレートに伝えても相手の反応次第では自分自身が傷つくこともあるので、あえて予防線を張った物言いをしてしまう。でもそれって相手から「そんなことないよ」という言葉を引き出して優しさを強要する行為でもあるなと気づき、結局、自分が弱いだけのことなのではないかと反省してしまうこともあります。

――奥村
とてもわかります。相手に誠実であろうとすることと、自分に対して誠実であるということ、この二つが矛盾することは日常でもよくあると思います。自分に誠実であろうとすると他者に対して不誠実になり、他者に誠実であろうとすると自分にうそをつくことになる。登場人物の中には自身のポリシーを曲げずに思ったことをそのまま伝えて周囲の人間を傷つけてしまうキャラクターもいますが、それは自分自身に対して誠実ともいえる。

――たらちね
内心は理解していたとしても、本当のことを他人から指摘されるとすごく傷つくこともありますよね。私が学生時代に影響を受けた、やまじえびね先生の『LOVE MY LIFE』 *¹いう作品の中に「よーく考えると物事って、常に一番嫌なもののおかげで成り立ってると思わない?」というセリフがあり、とても腹落ちをした経験があって、誰かに対して「この人、苦手だな」と感じる時は、自分自身に気づきを与える機会にもなりえるとも思います。作者としては、憎まれるキャラクターも見方を一つ変われば読者から好かれるのではという期待もあります。

――奥村
少し大げさかもしれないけど、たらちねさんの作品の登場人物達はそれぞれの仕方で誠実さを追求している感じがします。不誠実な人がひとりもいない。でも、実際の世界では誠実であるということはなかなか難しい…。人と人との関わりの中で重要なことだけど、そこまでがんばらないと続けられない対人関係なら別にもう続けなくていいやと、投げ出したくなる気がしてしまう瞬間もありますよね(笑)。

――たらちね
よくわかります(笑)。漫画家としてもモノを創作する上では「勘違いする力」がとても重要だと実感しているので、仮に相手への優しさであっても現実的な指摘で相手の思い込みを奪ってしまうのはよくないと思う面もありますし。例えば相談を受けた場合でも、頭の中で浮かんだ言葉が、決して相手が求めている答えじゃないということもよくあります。対人関係を続ける上でそのバランスは難しいですよね。

凸凹とした社会の中に、共にいる

――奥村
なるほど、「勘違いする力」か…。漫画の世界だけでなく実世界においても、人間は誰しも凸凹があって、異なる個性や違った属性の人達が集まって社会が成り立っています。凸凹がある以上、他者との差は生じてしまうので、そこから嫉妬や羨望を抱くこともあると思いますが、たらちねさんの作品では登場人物が相手に対してあまり負の感情を抱かずにリスペクトする方に向かうのも素敵なところですね。

――たらちね
もちろん、学生時代から友人を羨ましく感じたり、漫画家として誰かの面白い作品を読んで嫉妬することもありますけど、ただその感情に引っ張られていても、なりたい自己像からは遠のくだけじゃないかと冷静に見ている部分もありますね。その人が優秀なことと、私自身ができることは別の話なので、それぞれもっている器を比較しても意味はないと思うようにしています。作品の中の登場人物達も、作者である私自身の体感が反映されているはずなので、負の感情に振り回される機会は少ないかもしれないですね。逆にそういった描写があれば、私自身がその状況に陥っている可能性も(笑)。

――奥村
異なる価値観や共感しきれない指向をもった他者がいる、という現実に直面することもありますよね。作品では断定的な言い方はされていませんでしたが、うみ子がクラスメートと恋バナ(恋愛に関する話題)をする中で、その場にいない人物がいわゆるセクシュアル・マイノリティなのではと話す場面があります。その際に思わずうみ子は「そういう人」という言葉を使ってしまい、相手からとがめられて落ち込むのですが、ここは他者理解という視点で考えると、とても印象的に感じました。


――たらちね
基本的に世の中にある多くの価値観は流動的に動いていくものだと思うので、作品を作る上ではあまり断定する表現はしないようにしています。ただ、うみ子が発言をとがめられても素直に落ち込むことができたのは、作者でありながらとても感心してしまいました。もし実際に誰かから発言をとがめられたら、落ち込むことよりも、すねたり、言い訳したりしてしまう人の方が実際には多いような気がしています。

――奥村
確かに、「素直に落ち込める」のは素晴らしい才能ですね。どんなに気をつけていたとしても、わからないものには壁をつくって安心してしまうことや、踏み込むのが怖くてカテゴリーレベルで「あの人たちはああだから」と理解したつもりになるということを、日常生活の中で私達はよくやってしまうと思います。それによる摩擦や分断も世界中で起きている中で、素直に落ち込むことは必要なのかもしれません。

――たらちね
はい。そういった素直さは、経験を積んでいたり、守るものがたくさんある人ほど難しいことですよね。それに決して優しさだけではできないことであるとも思っています。自分の価値観が揺らぐような新しいことや自分とは異なる価値観を目の当たりにしても受け入れようとする姿勢を、才能として描いています。ただ実際の私自身としては、わかり合えずに縁が切れてしまった友人もいますし、それはしょうがないことかなと思う部分もあります。仮にわかり合えないとしても、あくまで現在の私自身との相性が悪いだけみたいな考え方をするようにしていて、第三者から見たらその人は素敵な部分もあるはずですし、人の考え方は動くものだから時間が経てばわかり合えることもあるかもしれない。なので、価値観が合わない人でも最低限の敬意をもって接することが大切だと思います。



――奥村
いまのお話を伺うと、たらちねさんの視点は相手と自分の関係性を俯瞰で捉えているように感じます。私がとても好きなセリフに、うみ子が「映画を撮っている限り強い…苦しいこと、やりきれないこと、怒り、悲しみ、喜び、全部俯瞰してやりましょう」と言う場面があります。ここには怒り、悲しみ、喜ぶ自分と、それを俯瞰する自分がいる。

政治哲学者のハンナ・アーレント*²は、物理的に他者と切り離されている「孤立」、多くの人の中でひとりぼっちと感じる「さびしさ」と区別して、「孤独」とは「自分自身と対話し、物事を考えることができる状態」だと論じています。そして、そのためにはtwo in one(自身の中に2人ないし複数の自分をもつこと)が重要であるとも説いています。うみ子の中には2人以上の自分がいるように思います。発言をとがめられた際にちゃんと落ち込むことができたのは、1人の人格であれば反発してしまうけど複数の自分が心の中で対話できているからではないか。確かに経験を積みすぎると素直になれない側面もあるけど、主婦・母・学生という多様な経験を積んだうみ子だからこそ、そういった解釈ができたのかもしれないし、うみ子というキャラクターは「孤独」をよく知っている人といえるかもしれません。

――たらちね
確かに心の中にある自分が1人だけだと責任が集中してしまうけど、複数の自分が存在することで特定の視点に縛られずに分散されますね。

思いを分かち合えなくても、対話を開くために

――奥村
この作品は、うみ子と海という属性の異なる2人が、映画に対する熱量という重なる部分によって強い結びつきを感じることが主軸の物語ですが、それ以外にもさまざまな登場人物が出てきます。中にはこの2人ほど映画に熱量をもてないクラスメートもいる。実際に学校や会社などのコミュニティに所属していると、全員が同じ何かを共有することの難しさがありますよね。

――たらちね
そうですね。所属するコミュニティの中で合わない人もいるでしょうし、難しいですよね。それに、読者は特定の登場人物に感情移入をしていることもあるので、物語の構成上、中には憎まれる登場人物も出てきます。私自身が心掛けていることでいえば、あまり他者に期待しないようにはしたいと思っています。基本的に誰もが他者の期待とは関係なく自由に生きているだけなのに、勝手に友人やクラスメートに期待してしまい、期待通りじゃないと感じて勝手にがっかりするのはよくないですね。


――奥村
例えば恋愛漫画だと、恋愛対象となる相手と自分の関係性が中心に描かれますが、そうなると向かい合っての対話のように、関係性が閉じてしまい身勝手な嫉妬や期待のような感情も芽生えてしまう。仮に恋愛に夢中だとしても、実際の私達は所属するコミュニティの中でそれぞれの役割を与えられていて、家に帰れば家族がいたり、自分自身の生活もあったりして、そういった往復の中で日常が続いています。この作品では、映画制作が気高い理想を追う芸術としてではなく、ひとつひとつの雑事を積み重ねていく「仕事」として描かれています。その「仕事」と地続きのものとして、家事をしたりバイトをしたり、自分の生活をつくる登場人物の姿が丁寧に描写されている点に素晴らしさを感じます。

――たらちね
私自身も仕事として漫画を描いていますが、日常は切り離せないものという感覚をもっています。漫画の創作って無限の作業のようでいつ終わるんだみたいに感じることもあり、作業も山場を迎え始めると日常もそれなりにこなさないと漫画が描けなくなってしまいます。そういったときに家事などをおこないながら日常のリズムを取り戻す感覚がありますね。


――奥村
私達も、日常と往復しながら開いた状態で、「リズム」をもって他者とのつながりを蓄積していくことが重要なのかもしれませんね。相手をわかろうとし過ぎると相手も自分も消耗してしまう可能性がある。うみ子と海のように並んで何かを眺めるという行為が大切だと感じますね。

――たらちね
そうですね。具体的に何かの思いを分かち合ったという確証がなかったとしても、時間を共有することが結構重要かもしれないですね。その人自身の性格よりも、あの時間が尊いから一緒にいるみたいなことがあるように思います。

――奥村
私自身も対人関係があまり得意じゃないからこそ、わからない他者と一緒にいるにはどうすればいいのかということをずっと考えてきました。でもやっぱりどうがんばっても相手がどう思っているかはわからないわけで、この人とはあれを一緒に並んで観たなとか、そういう些細なことを積み重ねていくことで対話を開いていけるといいなと思います。時々、素直に落ち込みつつ、ですね(笑)。

  • ※1
    『LOVE MY LIFE』 :やまじえびねによる漫画作品。女性と交際する同性愛者の少女が父親に恋人の存在を打ち明けたのを機に、自らと周囲の人間関係と性的嗜好について考えを巡らせていく姿を描く。
  • ※2
    ハンナ・アーレント:ナチスによる迫害を逃れてアメリカに亡命したユダヤ系ドイツ人の政治哲学者。ナチス体制下における全体主義を批判し、「凡庸な悪」という概念を提唱。


Text by Kosuke AOYAMA
Photographs by Masaharu Hatta

奥村隆 おくむら・たかし 1961年徳島県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。博士(社会学)。東京大学文学部助手、千葉大学文学部講師・助教授、立教大学社会学部教授を経て現職。専門は社会学理論、コミュニケーションの社会学、文化の社会学。著書に『他者といる技法――コミュニケーションの社会学』(1998年、日本評論社→2024年、ちくま学芸文庫)、『反コミュニケーション』(2013年、弘文堂)、『社会学の歴史Ⅰ――社会という謎の系譜』(2014年、有斐閣)、『慈悲のポリティクスーーモーツァルトのオペラにおいて、誰が誰を赦すのか』(2022年、岩波書店)、『社会学の歴史Ⅱ――他者への想像力のために』(2023年、有斐閣)など、編著に『コミュニケーションの社会学』(共編著、2009年、有斐閣)、『作田啓一 vs. 見田宗介』(2016年、弘文堂)、『戦後日本の社会意識論――ある社会学的想像力の系譜』(2023年、有斐閣)などがある。

たらちねジョン 兵庫県出身。既刊に、『グッドナイト、アイラブユー』(KADOKAWA)、『アザミの城の魔女』(竹書房)がある。現在「月刊ミステリーボニータ」(秋田書店)にて『海が走るエンドロール』を連載中。『海が走るエンドロール』は宝島社「このマンガがすごい!2022」オンナ編第1位、「マンガ大賞2022」第9位にランクインするなど、高い注目を浴びる。

青山公亮 あおやま・こうすけ 電通総研 研究員/プロデューサー
2023年1月より電通総研。主な活動テーマは「ケア」「社会システム」。PRプランナーの実務経験と社会科学研究のバックグラウンドを生かして研究活動をおこなう。

若杉茜 わかすぎ・あかね 電通総研 研究員/プロデューサー
2022年4月より電通総研。活動テーマは「ケア」「ウェルビーイング」。クリエーティブ、コミュニケーションプランニングの実務経験と哲学のバックグラウンドを活かして研究活動をおこなう。











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