ウェルラボが挑む「人間理解」。アート体験はビジネスパーソンの思考をどう変えたのか?
-「Art Trialogue」開催レポート –

2026年6月15日、電通総研本社に、大学の研究者や多様な業界で働くビジネスパーソンなど、産学から12名が集まりました。この日開かれたのは、「Art Trialogue(アート・トライアローグ)」と題した、アート体験を通じて対話を生み出すプログラムです。
企画を手がけたのは、コンサルティング本部でR&Dを担う「ウェルラボ」。同ラボは人の感性やウェルビーイングを起点とした価値創造を支援する組織です。ファシリテーターに、アート・アンド・ロジック代表の増村岳史氏と武蔵野美術大学 芸術文化学科 教授の杉浦幸子氏を迎え、参加者とともにアートを介した対話に臨みました。
普段は合理的に課題を捉え、解決策を導き出すことを求められる人々が、あえて答えのないアートに向き合う。そこには、どのような戸惑いや発見が生まれ、対話はどう動き出したのでしょうか。当日の狙いと手応えを、企画・登壇した3氏の言葉からたどります。

インタビュイー

  • アート・アンド・ロジック代表 増村岳史氏
  • 武蔵野美術大学 芸術文化学科 教授 杉浦幸子氏
  • 電通総研 コンサルティング本部 ウェルラボ 山口麻木

正解のない時代、なぜビジネスにアートが必要なのか

近年、生活者の価値観がモノの所有や効率性から、心の豊かさやウェルビーイングへと大きくシフトしています。こうした中、人を知るための研究と、実際のデザイン案件とを掛け合わせる実践的なアプローチで、“人”起点の価値創造を支援してきたのが電通総研ウェルラボです。同組織は2026年1月、産学横断プロジェクト「人間理解エコシステム」を始動させました。
人間理解エコシステムは、一企業では捉えきれない多面的な人の理解を深めるため、企業や大学、研究機関などの多様なステークホルダーが知見を持ち寄るコミュニティです。産業・学術界横断の知を土台に、参加者が探究したい「問い」を中心とした共創を行い、新規事業開発や組織開発など、ビジネス課題の解決を目指しています。
そのアプローチの大きな特徴が、哲学対話やアート対話を柔軟に取り入れた多様な対話の場づくりです。日常業務では接点の少ない越境体験を通じて、従来の思考の枠を広げ、革新的なアイデアを生み出す土壌をつくるのが狙いです。
今回の「Art Trialogue」も、人間理解エコシステムの一環として開催されました。ロジカルシンキングが求められるビジネスの現場で、なぜ対極とも言えるアートに着眼したのでしょうか。企画を主導した山口、講師を務めた増村氏、杉浦氏に背景を聞きました。

アートワークの説明をするアート・アンド・ロジック代表 増村岳史氏

山口: 以前、生活者向けの商品開発に携わっていた頃から、いくら最新テクノロジーや優れた機能を搭載しても、それだけではお客さまの心に響かないという課題感を持っていました。昨日までの当たり前が突如として陳腐化していくVUCAやBANIと言われる現代に、一企業だけで新しい価値を見出すのは困難です。だからこそ、業界の枠組みを取り払って、多様な人たちと問い合う場を作りたかったのです。
そのアプローチとしてアートに着目したのは、私たちが普段行っている言語を通じたコミュニケーションの限界を感じていたためです。言葉だけの議論は、発言力の大きい人に場を持っていかれたり、言葉に縛られてわかったつもりになってやり過ごしてしまったりしがちです。アートという非言語的な情報と向き合うことで、無意識に蓋をしていた身体感覚や思考を開き、それを他者と共有することで、場に動的なインタラクションを生み出したいと考えました。
増村: 私は長年、ビジネスパーソン向けにアートを取り入れた研修を行ってきました。アートというと直感や感性だけのものと思われがちですが、実は情動的な部分とロジカルな部分の二面性を持っています。たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチは、『モナ・リザ』の微笑みのカーブを正確に描くために、人体解剖を通じて骨格や筋肉の構造を克明にスケッチしました。つまり、一定のロジックとバランスを取りながら育まれてきたのがアートなのです。今回のイベントでも、ビジネスパーソンが陥りがちな思考の癖を外すために、このロジカルと直感の交差を利用しました。
杉浦: 私は大学教員として、またミュージアムなどの社会資源を活用した「こと」のデザインを研究する立場として、目の前の課題だけでなく、その少し先にある社会の変化まで見据えるウェルラボのコンセプトメイキングに共感しました。ミュージアム業界でも現在「ウェルビーイング」が重要なキーワードになっており、よく生きる・よく過ごすための活動が求められています。クリエイティブな人材を育成し、発展させていく機会を企業がしっかりとデザインしようとしている取り組みに大きな意義を感じました。

対話が自走する「3人(Trialogue)」という仕掛け

今回のイベントタイトルは、対話を意味する「Dialogue(ダイアローグ)」ではなく、「Trialogue(トライアローグ)」と名付けられました。その背景にあるのが、参加者を3人1組のチームに分けるという仕掛けです。

山口: 対話の場において、1対1の2人組だと、常にキャッチボールを続けなければならないというプレッシャーが生まれ、お互いに気遣いすぎて同調的な会話になりがちです。一方で、5〜6人の集団になると、限られた時間で「とりあえず自分の発表をして終わり」になってしまい、誰かが投げたボールを誰も拾わずに終わってしまうおそれがあります。
増村さんから「3人チームでいきましょう」とご提案いただいたとき、これは絶妙だと思いました。1人が発言し、もう1人が応答する。それを聞いていた3人目が新しい視点を投げ入れる。時間的・空間的な余白を持ちながら、3者の視点が交わることで良い思考の揺らぎが生まれるのではないか、と。
私たちがこの先育んでいきたいのは、多様な人々の間で自然と対話が立ち上がり、それぞれの想いが響きあう「Polylogue(ポリローグ)」の場です。小さな分子(モノマー)が2つ(ダイマー)、3つ(トリマー)と結びつき、やがてしなやかなポリマーへと姿を変えていくように、ここから対話が連なり、広がっていく土壌をつくりたい。今回は「3者による対話」を起点に、そこから生まれる豊かな広がりへの期待を込めて、この場を「Trialogue」と名付けました。

「みる・つくる」の体験設計で、ビジネスパーソンの思考の癖を外す

イベントの前半は、増村氏による「描く(つくる)」ワークショップ。後半は杉浦氏による「アート作品鑑賞(みる)」という構成で進行しました。いずれも、参加者の既成概念を揺さぶるための仕掛けが随所に施されていました。

アート作品のワークを進める武蔵野美術大学 芸術文化学科 教授 杉浦幸子氏

増村: 前半のワークでは、「紙を見ずに対象物だけを見つめて描き続ける」という課題を出しました。普段、結果を気にしてバックキャスト思考で仕事をしているビジネスパーソンにとって、手元の経過を確認できないまま描くという作業は、一種の戸惑いを生み出します。しかしこれは、まさに日常の課題解決に向かう思考パターンを自覚してもらうための仕掛けです。
日本のビジネスパーソンは課題を素早く解決することは得意ですが、その前段階である「問いを立てる」訓練をあまり受けていません。問いを立てるとは、膨大な事象から不要なものを削ぎ落とし、共通する本質だけを抜き出して一つの概念にまとめる「抽象化」の作業ともいえます。
AIに適切なプロンプトを投げるのにも、イノベーションを生むのにも、抽象化の力は不可欠です。あえて戸惑うようなワークを通じて、自らのそうした思考の癖に気づいてもらうことが大きな狙いでした。
杉浦: 私からは、後半の冒頭で「かんしょう」という言葉についてミニレクチャーを行いました。実は「かんしょう」には3つの漢字があります。美しい花や鳥を愛でる「観賞」、芸術作品の良さを見極め褒める「鑑賞」、そして対象物の形やありのままの姿を観察する「観象」です。当日はこのうち「鑑賞」と「観象」の2つに絞って解説しました。
私たちが普段「アート鑑賞」と呼んでいるものは、作品そのものを見るというより、知識という二次情報をもとに価値を判断する行為になりがちです。とくに現代は、インターネットで検索して先に知識を得ることで、実際には十分に見ていなくても、見たような気になってしまうことがありますよね。しかし、今回参加者に体験してほしかったのは、知識を入れる前に、作品そのものが放つ非言語のエネルギー、つまり一次情報を五感で受け止める「観象」のアプローチでした。
そのため、今回はあえて事前に作品名や作家名を伝えず、参加者の目の前で作品を開梱するところからスタートしました。美術館では、作品はすでに壁に掛けられた状態で見るのが当たり前です。その既成概念を崩すため、作品が初めて外界に開かれる瞬間から立ち会ってもらったのです。
このように情報を段階的に開示しながら、自ら作品に関わっていくプロセスをデザインすることで、対象に対する主体性とアタッチメントを持ってもらえるようにしました。

世界で活躍するアーティストとの対峙と短歌が生んだ熱狂

作品を観察し、チーム内で対話を重ねた後、作品を手掛けた現役のアーティストである樋口亜弥氏が会場に、菅かおる氏が京都のアトリエからオンラインで登場。さらに、一連のアート体験を通じて参加者の中で生まれた感情や気づきを短歌にして発表するというクライマックスを迎えました。

杉浦: 作品の知識から入るのではなく、まずは自分の目で見て、仲間と対話し、そのあとに実際のアーティストと対面する。この段階を踏むことで、参加者の皆さんは自ずと問いを“発掘”していました。
「なぜこの表現になったのか?」という、答えのない想像情報を、作品を生み出したアーティスト本人と直接やり取りする。この体験が参加者に与えた刺激は計り知れません。そして最後に、視覚情報や対話で得たものを自分の経験とすり合わせ、短歌という高度な言語情報に変換してアウトプットしてもらう。日常の思考の巡らせ方とはまったく違う頭の使い方をしてほしかったのです。


増村: 今回は、世界で活躍する現役アーティストにもご参加いただきました。作品が放つエネルギーと、作家自身が作品に込めた思いを言葉にする場面があったからこそ、非言語的な体験を超えた、より深みのあるコミュニケーションが生まれたのだと思います。
山口: 最初は「どうやって見たらいいのかわからない」と戸惑っていた参加者たちが、他者の視点を聞くなかでどんどん前のめりになっていくのがわかりました。3人のチームが、いつの間にか6人になり、ついには全員が一つの作品の前に集まってワイワイと話し始める。事前に設計した「3人」という枠組みが、良い意味で解体され、また戻っていくという動的なリズムが生まれていました。
そして最後の短歌の発表。皆さん「恥ずかしい」と言いながらも堂々と詠み上げ、それを全員が息を呑んで聞き入る。詠み終わった瞬間に「わぁっ」とため息がこぼれ、場全体が完全に一体化したあの瞬間のライブ感は、想像を遥かに超える素晴らしいものでした。
杉浦: 後日談もあります。参加者が詠んだ短歌とアンケートを作家のお二人にお渡しすると、今度は作家の側が深く刺激を受けていました。自分だけの世界で描いてきた作品が、こんなにも豊かな言葉になって返ってくる、と。刺激が一方通行ではなく行き来する、螺旋のような循環がそこに生まれていたのです。

参加者の短歌に耳を傾ける現役アーティスト 写真、左:菅かおる氏、右:樋口亜弥氏

アートを通じて発掘した「問い」をビジネスにどうつなぐか

イベント後のアンケートでは、「正解を追求する傾向からの解放」「先入観を持たないことの重要性」など、ビジネスパーソンたちの深い自己洞察と変容を示す言葉が多く寄せられました。このアート体験は、日常の業務やイノベーション創出にどう結びついていくのでしょうか。

アート作品を鑑賞するコンサルティング本部 ウェルラボ 山口麻木

杉浦: アンケートで非常に印象的だったのは、「普段は正解を追求してしまうが、ここは自らの問いを“発掘”できる場だった」という言葉です。問いとはゼロからつくるものではなく、自分の中にぼんやりとあるものを言語化し、他者と共有して掘り起こすもの。知識や先入観から入るのではなく、一度心を柔らかくして対象を受け止めることで、問いが発掘されます。そのプロセスが、専門領域に閉じこもりがちなビジネスパーソンの視点を広げ、より良いイノベーションを生み出す土壌になるはずです。実際、参加者の中には同僚を巻き込んで新たな動きを始めている方もいらっしゃいます。
増村: アーティストは与えられた課題を解決するのではなく、自ら問いを発掘し、それをアウトプットして世に問う存在です。課題解決ばかりに追われるビジネスパーソンにとって、正解のない問いに向き合い続ける彼らの姿勢に直接触れたことは、「課題解決型」から「問いを立てる発掘型」へと頭の使い方を切り替える、大きなパラダイムシフトのヒントになったのではないでしょうか。
山口: 普段の業務では、最短距離で効率よく成果を出すことが評価されます。しかし、だからこそ、時には寄り道が許される余白のある空間で自分自身としっかり向き合うことが必要です。
今回のイベントでは、参加者の皆さまが仲間同士やアーティストとの対話、短歌の制作を通じて、自らの思考の癖に気づき、他者と共鳴していく姿を目の当たりにしました。アートが介在することで生み出される身体感覚の相互作用には、まだまだ計り知れない可能性を感じています。
ウェルラボが目指す人間理解エコシステムでは、他者の声に耳を傾け、自らの内なる声と向き合える、余白のある空間を大切にしています。今回得た手応えを胸に、多様な人々が問いを持ち寄り、新たな価値を共に創り出していける場を育んでいきたいと思います。


「人間理解」という、一見すると抽象的で掴みどころのないテーマ。しかし「Art Trialogue」の場に立ち現れたのは、作品の前で思考を揺さぶられ、戸惑いながらも自らの言葉を紡ぎ出すビジネスパーソンたちの生々しい姿でした。
正解のない時代において、イノベーションの火種となるのは、効率的な課題解決ツールではなく、私たち自身の内奥にある「問い」を発掘する力にほかなりません。電通総研が仕掛けるこのエコシステムから、次はどのような化学反応が生まれるのか。今後も、産学の枠を超えたさまざまな仲間とともに、感性を起点とした対話と価値創造の場を広げていきます。

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